広島の原爆資料館がリニューアルしました。展示の仕方が大きく刷新されました。原爆のもたらした惨状の描写には、言葉ではなく実物(被爆者が実際に来ていた着衣など)を用いることで、来館者の心に訴えかけます。
2017年の正月、私は広島にいました。原爆ドームを見た後、大久野島へ行きました。この2つの遺構は、強いて言うならば前者が日本の「被害の象徴」、後者が「加害の象徴」です。
大久野島は、戦時中、条約で禁止されていた毒ガス兵器を日本軍が秘密裏に作っていた島です。戦争の歴史を忘れないための重要な場所ですが、原爆ドームに比べてこの「加害の象徴」は、メディアへの露出頻度が低い。知らない方もいるかもしれません。
私が人間の「加害者性」に関心を持ち始めたのは、大学でいじめについて勉強したときからです。伊藤茂樹という社会学者曰く、一般的に、第三者はいじめ被害者に同情することは容易いが、自分がいつでも加害者になりうるという自覚は疎いとのこと。私自身、学校でからかわれたことは被害の記憶として鮮明ですが、集団で誰かをからかったことは、「ノリ」だったとして正当化してきたと気づき愕然としました。
人間一般が持つ加害者としての自覚への疎さ・忘れたがる傾向というのは、ときに日本の歴史にも反映されます。以下、森達也さんの指摘。日本では、北朝鮮による拉致問題については長期に亘って強い関心が向けられている一方、日本が置き去りにした中国残留孤児について思い出す人はもう殆どいないとして、「つまり他国からの被害に対してはこれほど居丈高になるのに、この国の加害に対しては、ほとんど興味すらない。(中略)この国の現状は、その程度があまりに過ぎる。内省がほとんとない。」と述べています。(『死刑のある国ニッポン』pp.95-96)
何はともあれ、今年2月の天皇陛下のお言葉を拝し、令和の時代も戦争のない世界にしていきたいと切に祈りました。そのためには、表層的な意識啓発だけでは足りないことは今更言うまでもないです。生命が本源的に持つ加害者性を、各人が日常的に自己支配できるようにならなくてはなりません。
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