2019年5月25日土曜日

食品ロス


会社入社直後の新人研修の際、新しいアプリを考案してプレゼンテーションをするというのが研修の最終課題でした。私はそこでコンビニの食品ロスを削減するためのアプリを提案しました。実際にはそのようなアプリは当時からあったかもしれませんが。

時は三年経ち、524日の参院本会議で「食品ロス削減推進法」が可決、成立しました。農林水産省によると、国内でまだ食べられる状態で廃棄された食品は、2016年度には643万㌧に上った。食べるのに事欠く人もいる中で、これは深刻な問題ですね。店は常に商品を豊富に揃えていなければならないことと、新鮮な食品を定価で提供しようというルールに歯止めが効かなくなった結果です。推進法の動きと相まって、コンビニなどが新たな取り組みに着手しています。例えばセブンイレブンは、消費期限が近付いた食品を購入するとポイントが還元されるという仕組みを今秋から国内の諸店舗で導入します。

飲食店でも、残飯を持ち帰りできるために容器を常備しておくのもよいでしょう。GWに中国へ行ったのですが、中国の飲食店ではこのように残飯をパックできるサービスが非常に普及しているそうです。4泊3日のうち、別々のお店で二回このサービスをしてくれ、餃子やご飯をテイクアウトしました。

また、政府や生産者が食品ロス削減に向けて総力的に動くことは大切ですが、消費の最前線は言うまでもなく消費者です。商品を消費する側が、居酒屋などで過剰に注文をしないなどの工夫をすることが大切でしょう。

2019年5月24日金曜日


「この世には偶然などないのかも知れない/全てが必然であるかの様に……/ “縁”はやおら形を成してゆく……」(『ONE PIECE』より)



思えばこれまでの人生、本当に人の縁に恵まれてきたと思います。縁というのは一本の糸としてイメージされることが多いですが、実際にはその糸が何本も複雑に織られた網のようになっていると感じます。この縁の網の上で「生かされている」という謙虚な感覚を忘れない人は強いです。「生かされている」という受け身な感覚の中に強さがあるというのは逆説的ですが、それは人との繋がりを自覚することから生まれる安心感に根差しています。逆に、自分の足だけで生きているという感覚は、短期戦には強いですが長い目で見ると孤独をもたらします。

2019年5月23日木曜日

不安


私の課題は、なんといっても「不安との戦い」だ。先を見通す力がある故、あらゆる悪い事態を想定して不安になってしまう。逆に言えば、私の抱える不安はほとんど全てがまだ起きていない事態に対するものなのだ。そこで、不安が強くなっているときは、まずは目の前のことに集中しようと言い聞かせる。皿を洗うとか、シャワーを浴びるとか、朝しっかり起きるとか。
うつや不安障害に伴う不安のために、何も手が付けられなくなっている人は、そんな些細なことから始めてみると気が紛れるかもしれない。

2019年5月22日水曜日

メンヘラ・ヘッセ


私の好きな作家にヘルマン・ヘッセという人がいます。何と言ってもこの人のメンヘラ具合が私自身とオーバーラップするところがあり、大好きなのです。

彼は、祖父と父の影響で牧師になることが決定づけられていたような少年時代を送りました。そうすることが自明であるかのように神学校に入ったのですが、入学する少し前から彼は「詩人になるのでなければ、何にもなりたくない」という強い気持ちを抱いていました。そして、学校の詰め込み教育と規則ずくめの寮生活が、彼の抱いてきた気持ちを抑圧します。その抑圧は、彼が14歳のときに神学校からの脱走という形で爆発します。すぐに捉えられましたが、やがて心身のバランスを失った彼は結局退学します。

ほどなくして彼はなんとか高校に転入学します。しかし、1年経たないうちに退学します。この間も彼は、自殺のために教科書を売ってピストルを買うというメンヘラっぷりを発揮しています。今度は本屋の見習い店員になるのですが、3日で行方不明になります。重症ですね。何をやってもいかんということで家族も自分も絶望的になります。その後、紆余曲折を経て17歳で町工場の見習い工になります。ここでの労働の傍ら、ヘルマンは独学で詩人としての教養と才覚を磨いていきます。

町工場で1年ほど働いた後、大学町のチュービンゲンにある書店の店員となります。まともに神学校を卒業していたらそこの大学で勉強していた訳ですが、脱線者として学生に本を売る身分になったのです。この劣等感に耐えながら労働しつつ、詩人として本格的なスタートを切ります。彼の作品は、徐々に、ゆっくりと名声を得ていき、27歳のときに『郷愁』という小説で一躍文名を高めます。

しかし、第一次世界大戦やヒトラーの暴政は、作家としてのヘッセに大きな苦難をもたらします。彼は反戦の立場を貫き、裏切り者、売国奴として弾劾されてしまいます。それにも屈せず作品を発表し続け、第二次大戦後の1946年、ノーベル文学賞を受賞します。(以上は全て、ヘッセ著『車輪の下』の巻末にある高橋健二氏の解説を参考に書きました。)

ここまで、ヘッセの半生をつらつらと書いてきましたが、戦争に対する姿勢を見るとただのメンヘラではないことが分かります。繊細な中にも、己が信念のためには動じない確固たる姿勢がうかがえます。マハトマ・ガンジーを彷彿とさせますね。

ヘッセの若いころのように、私も小学校時代から脱走癖があります。また、無駄に感受性が高いところがあります。それはそうとして、大戦時代におけるヘッセのように、いざという時に逃げずに立ち向かう強さがあるかと言われると、怪しいですね。今からできることとして、このブログを通して、言論戦の腕を日々磨いていきたいと思います。

2019年5月21日火曜日

雨が好きだ。周りの空気が重くなり、自分の陰鬱さが目立たなくなるから。

2019年5月20日月曜日

アスペルガーと私


精神医学界における診断の基準となっている、『DSM-5』によると、「アスペルガー症候群」は独立した疾病単位ではなく、「自閉スペクトラム症」という発達特性のなかに包含されています。(それより前の版であるDSM--TR以前では分けられていました)この自閉スペクトラム症の3特徴として、児童精神科医ローナ・ウィングらが1979年に示した「コミュニケーションの障害」「社会性の障害」「想像力の障害と固執傾向」は今でも広く流布されています。これらの特徴を持つ人たちのうち、知的な遅れが見られないグループが長きにわたって「アスペルガー症候群」と言われてきました。DSM-5以降もこの名称は強い市民権を保持して今日に至っています。

私がその診断を受けたのは小学校6年の1学期のことでした。当時の私にとっては初めて聞く名前だった「アスペルガー症候群」。それ以降、私はネットや文献などでこの耳慣れぬ障害について調べてきました。調べたうえで私がどうしたかというと、自分の中からアスペルガーの特徴を極力排除するようにしてきました。当時の私にとって、「普通であること」は正義でした。例えば、先に挙げたウィングの特徴のうち「社会性の障害」は、いわゆる「空気が読めない人」としてしばしば現れます。ですから私は自分なりに、周囲の空気を敏感に察知することを相当意識して生きてきました。また、「コミュニケーションの障害」があると思われないようにするためには、とにかく聞き上手になればいいと思い至り、自己訓練に励んできました。

そのように、いわば「アスペっぽさ」を自分から次々と捨象するようにして生きて、いわゆる「普通」をとにかく目指してきたのでした。その甲斐あってか、発達障害をカミングアウトすると、全く驚かれるほどに私は「普通」に溶け込んでいくことができました。しかし、根本的には変えられない特徴が潜伏している状態で、「普通」と思われることは却って辛いと思う場面が多々出てきました。つまり、時々その潜伏した症状が現れる時、「普通だけどちょっと変わっている」と周囲に思われることは、初めから発達障害と思われるよりも精神的にきついという実感があるのです。

そこで、最近私はある雑誌にて、とあるADHD(注意欠陥・多動性障害)の婦人の言葉を目にして少しだけ救われました。「『普通』を演じてきたくせに、『普通に見える』ことによって、自分の首を絞めていた。ほんとは、とてつもない苦しみや葛藤がある。人一倍、努力して、みんなと同じラインに立っている。だから、『見える私』じゃなくて、『見えない私』がいることを誰かに知ってほしかった」(『大百蓮華』20195月号、p.88

まさに私が抱いてきた感覚にぴったりと合っていました。これまで、私の苦しみは私にしか分からないと孤独を決め込んでいました。しかし、同じような苦しみを抱く人が同じ空の下にいることは、私にとって大きな希望となりました。私も、誰かにとってそんな存在になるため、精いっぱい日々を生きたいと思います。

2019年5月19日日曜日

リトルターン


私の好きな絵本の話をしたいと思います。ブルック=ニューマンの『リトル ターン』(五木寛之・訳)という作品です。主人公は一羽のリトルターン(コアジサシという鳥)。彼はある日突然空を飛べなくなってしまいます。その原因がケガなどの外部的要因ではなく、自分の中にあるということを察した彼の、再生への旅を描いています。

私がこの物語に魅力を感じたのは、リトルターンの挫折と再生への歩みが、うつ病患者の発症~寛解に至るプロセスによく似ている点です。まず彼は突然飛べなくなるのです。うつ病も、ある日突然糸が切れたように、起きようとも体が動かなかったり、あらゆる欲求が停止してしまいます。

そして、彼は飛べなくなった直後、その真実を仲間には伝えず、歩いて海岸を冒険しているなどと説明してお茶を濁します。うつ病患者も、自分のことを素直にカミングアウトするには多少なりとも抵抗があります。目立った外傷の場合は、その傷を見せれば説明になるのですが、うつ病のような精神疾患の場合、言葉で説明するしかありません。そして説明するにも余計精神的エネルギーを使ってしまいますから、このことがうつ病患者の自己説明に際する足かせとなってしまっています。

そして、リトルターンの再生プロセスで注目すべき点は、ただ単に「自分探しの旅」「自己への問いかけ」のみを通して再生するのではなく、外界との様々な縁によってじっくりと本来の自己を取り戻していくことにあります。私自身の実感として、うつ病の経過は良い縁にどれだけ恵まれるかにかかっていると言っても過言ではありません。

特にこの物語に欠かせないのはゴースト・クラブ(ゆうれいガニ)との出会いです。ゴースト・クラブの発言や彼との出会いによって得た気づきは、示唆に富む言葉で描写されています。「きみは飛ぶ能力を失ったんじゃない。ただどこかに置き忘れただけだ」(You have not lost ability to fly: you have only misplaced it.)、「ただ待って時間を無駄にすることと、待ちながらじっくり学ぶことの違いを発見せよ」(Discover the difference between wasting time and learning from time)など。特に、私の座右の銘ともなっているのは、以下のゴースト・クラブの言葉です。「普通とか普通でないとかいう見方にとらわれている限り、普通でないものは普通じゃないんだ」(The unusual is only unusual if you see it that way.)

忙しない日常において、小さな発見をもたらしてくれる素晴らしい絵本です。