2019年5月25日土曜日

食品ロス


会社入社直後の新人研修の際、新しいアプリを考案してプレゼンテーションをするというのが研修の最終課題でした。私はそこでコンビニの食品ロスを削減するためのアプリを提案しました。実際にはそのようなアプリは当時からあったかもしれませんが。

時は三年経ち、524日の参院本会議で「食品ロス削減推進法」が可決、成立しました。農林水産省によると、国内でまだ食べられる状態で廃棄された食品は、2016年度には643万㌧に上った。食べるのに事欠く人もいる中で、これは深刻な問題ですね。店は常に商品を豊富に揃えていなければならないことと、新鮮な食品を定価で提供しようというルールに歯止めが効かなくなった結果です。推進法の動きと相まって、コンビニなどが新たな取り組みに着手しています。例えばセブンイレブンは、消費期限が近付いた食品を購入するとポイントが還元されるという仕組みを今秋から国内の諸店舗で導入します。

飲食店でも、残飯を持ち帰りできるために容器を常備しておくのもよいでしょう。GWに中国へ行ったのですが、中国の飲食店ではこのように残飯をパックできるサービスが非常に普及しているそうです。4泊3日のうち、別々のお店で二回このサービスをしてくれ、餃子やご飯をテイクアウトしました。

また、政府や生産者が食品ロス削減に向けて総力的に動くことは大切ですが、消費の最前線は言うまでもなく消費者です。商品を消費する側が、居酒屋などで過剰に注文をしないなどの工夫をすることが大切でしょう。

2019年5月24日金曜日


「この世には偶然などないのかも知れない/全てが必然であるかの様に……/ “縁”はやおら形を成してゆく……」(『ONE PIECE』より)



思えばこれまでの人生、本当に人の縁に恵まれてきたと思います。縁というのは一本の糸としてイメージされることが多いですが、実際にはその糸が何本も複雑に織られた網のようになっていると感じます。この縁の網の上で「生かされている」という謙虚な感覚を忘れない人は強いです。「生かされている」という受け身な感覚の中に強さがあるというのは逆説的ですが、それは人との繋がりを自覚することから生まれる安心感に根差しています。逆に、自分の足だけで生きているという感覚は、短期戦には強いですが長い目で見ると孤独をもたらします。

2019年5月23日木曜日

不安


私の課題は、なんといっても「不安との戦い」だ。先を見通す力がある故、あらゆる悪い事態を想定して不安になってしまう。逆に言えば、私の抱える不安はほとんど全てがまだ起きていない事態に対するものなのだ。そこで、不安が強くなっているときは、まずは目の前のことに集中しようと言い聞かせる。皿を洗うとか、シャワーを浴びるとか、朝しっかり起きるとか。
うつや不安障害に伴う不安のために、何も手が付けられなくなっている人は、そんな些細なことから始めてみると気が紛れるかもしれない。

2019年5月22日水曜日

メンヘラ・ヘッセ


私の好きな作家にヘルマン・ヘッセという人がいます。何と言ってもこの人のメンヘラ具合が私自身とオーバーラップするところがあり、大好きなのです。

彼は、祖父と父の影響で牧師になることが決定づけられていたような少年時代を送りました。そうすることが自明であるかのように神学校に入ったのですが、入学する少し前から彼は「詩人になるのでなければ、何にもなりたくない」という強い気持ちを抱いていました。そして、学校の詰め込み教育と規則ずくめの寮生活が、彼の抱いてきた気持ちを抑圧します。その抑圧は、彼が14歳のときに神学校からの脱走という形で爆発します。すぐに捉えられましたが、やがて心身のバランスを失った彼は結局退学します。

ほどなくして彼はなんとか高校に転入学します。しかし、1年経たないうちに退学します。この間も彼は、自殺のために教科書を売ってピストルを買うというメンヘラっぷりを発揮しています。今度は本屋の見習い店員になるのですが、3日で行方不明になります。重症ですね。何をやってもいかんということで家族も自分も絶望的になります。その後、紆余曲折を経て17歳で町工場の見習い工になります。ここでの労働の傍ら、ヘルマンは独学で詩人としての教養と才覚を磨いていきます。

町工場で1年ほど働いた後、大学町のチュービンゲンにある書店の店員となります。まともに神学校を卒業していたらそこの大学で勉強していた訳ですが、脱線者として学生に本を売る身分になったのです。この劣等感に耐えながら労働しつつ、詩人として本格的なスタートを切ります。彼の作品は、徐々に、ゆっくりと名声を得ていき、27歳のときに『郷愁』という小説で一躍文名を高めます。

しかし、第一次世界大戦やヒトラーの暴政は、作家としてのヘッセに大きな苦難をもたらします。彼は反戦の立場を貫き、裏切り者、売国奴として弾劾されてしまいます。それにも屈せず作品を発表し続け、第二次大戦後の1946年、ノーベル文学賞を受賞します。(以上は全て、ヘッセ著『車輪の下』の巻末にある高橋健二氏の解説を参考に書きました。)

ここまで、ヘッセの半生をつらつらと書いてきましたが、戦争に対する姿勢を見るとただのメンヘラではないことが分かります。繊細な中にも、己が信念のためには動じない確固たる姿勢がうかがえます。マハトマ・ガンジーを彷彿とさせますね。

ヘッセの若いころのように、私も小学校時代から脱走癖があります。また、無駄に感受性が高いところがあります。それはそうとして、大戦時代におけるヘッセのように、いざという時に逃げずに立ち向かう強さがあるかと言われると、怪しいですね。今からできることとして、このブログを通して、言論戦の腕を日々磨いていきたいと思います。

2019年5月21日火曜日

雨が好きだ。周りの空気が重くなり、自分の陰鬱さが目立たなくなるから。

2019年5月20日月曜日

アスペルガーと私


精神医学界における診断の基準となっている、『DSM-5』によると、「アスペルガー症候群」は独立した疾病単位ではなく、「自閉スペクトラム症」という発達特性のなかに包含されています。(それより前の版であるDSM--TR以前では分けられていました)この自閉スペクトラム症の3特徴として、児童精神科医ローナ・ウィングらが1979年に示した「コミュニケーションの障害」「社会性の障害」「想像力の障害と固執傾向」は今でも広く流布されています。これらの特徴を持つ人たちのうち、知的な遅れが見られないグループが長きにわたって「アスペルガー症候群」と言われてきました。DSM-5以降もこの名称は強い市民権を保持して今日に至っています。

私がその診断を受けたのは小学校6年の1学期のことでした。当時の私にとっては初めて聞く名前だった「アスペルガー症候群」。それ以降、私はネットや文献などでこの耳慣れぬ障害について調べてきました。調べたうえで私がどうしたかというと、自分の中からアスペルガーの特徴を極力排除するようにしてきました。当時の私にとって、「普通であること」は正義でした。例えば、先に挙げたウィングの特徴のうち「社会性の障害」は、いわゆる「空気が読めない人」としてしばしば現れます。ですから私は自分なりに、周囲の空気を敏感に察知することを相当意識して生きてきました。また、「コミュニケーションの障害」があると思われないようにするためには、とにかく聞き上手になればいいと思い至り、自己訓練に励んできました。

そのように、いわば「アスペっぽさ」を自分から次々と捨象するようにして生きて、いわゆる「普通」をとにかく目指してきたのでした。その甲斐あってか、発達障害をカミングアウトすると、全く驚かれるほどに私は「普通」に溶け込んでいくことができました。しかし、根本的には変えられない特徴が潜伏している状態で、「普通」と思われることは却って辛いと思う場面が多々出てきました。つまり、時々その潜伏した症状が現れる時、「普通だけどちょっと変わっている」と周囲に思われることは、初めから発達障害と思われるよりも精神的にきついという実感があるのです。

そこで、最近私はある雑誌にて、とあるADHD(注意欠陥・多動性障害)の婦人の言葉を目にして少しだけ救われました。「『普通』を演じてきたくせに、『普通に見える』ことによって、自分の首を絞めていた。ほんとは、とてつもない苦しみや葛藤がある。人一倍、努力して、みんなと同じラインに立っている。だから、『見える私』じゃなくて、『見えない私』がいることを誰かに知ってほしかった」(『大百蓮華』20195月号、p.88

まさに私が抱いてきた感覚にぴったりと合っていました。これまで、私の苦しみは私にしか分からないと孤独を決め込んでいました。しかし、同じような苦しみを抱く人が同じ空の下にいることは、私にとって大きな希望となりました。私も、誰かにとってそんな存在になるため、精いっぱい日々を生きたいと思います。

2019年5月19日日曜日

リトルターン


私の好きな絵本の話をしたいと思います。ブルック=ニューマンの『リトル ターン』(五木寛之・訳)という作品です。主人公は一羽のリトルターン(コアジサシという鳥)。彼はある日突然空を飛べなくなってしまいます。その原因がケガなどの外部的要因ではなく、自分の中にあるということを察した彼の、再生への旅を描いています。

私がこの物語に魅力を感じたのは、リトルターンの挫折と再生への歩みが、うつ病患者の発症~寛解に至るプロセスによく似ている点です。まず彼は突然飛べなくなるのです。うつ病も、ある日突然糸が切れたように、起きようとも体が動かなかったり、あらゆる欲求が停止してしまいます。

そして、彼は飛べなくなった直後、その真実を仲間には伝えず、歩いて海岸を冒険しているなどと説明してお茶を濁します。うつ病患者も、自分のことを素直にカミングアウトするには多少なりとも抵抗があります。目立った外傷の場合は、その傷を見せれば説明になるのですが、うつ病のような精神疾患の場合、言葉で説明するしかありません。そして説明するにも余計精神的エネルギーを使ってしまいますから、このことがうつ病患者の自己説明に際する足かせとなってしまっています。

そして、リトルターンの再生プロセスで注目すべき点は、ただ単に「自分探しの旅」「自己への問いかけ」のみを通して再生するのではなく、外界との様々な縁によってじっくりと本来の自己を取り戻していくことにあります。私自身の実感として、うつ病の経過は良い縁にどれだけ恵まれるかにかかっていると言っても過言ではありません。

特にこの物語に欠かせないのはゴースト・クラブ(ゆうれいガニ)との出会いです。ゴースト・クラブの発言や彼との出会いによって得た気づきは、示唆に富む言葉で描写されています。「きみは飛ぶ能力を失ったんじゃない。ただどこかに置き忘れただけだ」(You have not lost ability to fly: you have only misplaced it.)、「ただ待って時間を無駄にすることと、待ちながらじっくり学ぶことの違いを発見せよ」(Discover the difference between wasting time and learning from time)など。特に、私の座右の銘ともなっているのは、以下のゴースト・クラブの言葉です。「普通とか普通でないとかいう見方にとらわれている限り、普通でないものは普通じゃないんだ」(The unusual is only unusual if you see it that way.)

忙しない日常において、小さな発見をもたらしてくれる素晴らしい絵本です。

2019年5月18日土曜日

心の風邪


うつは「心の風邪」と表現されることがある。あるサイトを見たときに、これに異を唱える人がいた。すなわち、うつ病は「風邪」などという軽い言葉で表現されうるようなものではない、というものだ。

確かにうつ病は軽い病ではない。朝起きてから夜寝るまで、何もやる気が起きなくなるし、未来に対して絶望的になるというのは深刻な事態である。だが、そもそも「心の風邪」というのは誰が最初に言い始めたかは定かではありませんが、その真意は何かを考える必要があります。これは、「風邪のように軽いもの」ではなく、「風邪のように誰でもなりうるもの」ということを表現したかったのでは、と私は考えています。

すべての命には、あらゆる病になる可能性と、それを克服できる生命力が宿っています。

2019年5月17日金曜日

鳳凰編


今年で、漫画家の手塚治虫さんが亡くなってから30年が経ちます。今は令和元年ですが、手塚さんが亡くなったのは平成元年であることを考えると、匆匆の間に時代が過ぎていった感があります。

手塚さんの代表作『火の鳥』は私が中学時代熱中して読んだ漫画の一つでした。特に、深い感銘を受けたのはその中の「鳳凰編」です。幼少の頃からあらゆるものに対して怒りを抱きながら生きてきた我王と、純粋な心を持った仏師茜丸との不可思議な運命を描いています。何が不可思議かと言うと、二人が初めて会ってから15年経って、それぞれ人間の中身が大きく変化しているということです。我王は師匠との出会いと別れを通じて、命の本質を悟ります。一方、茜丸は純粋な心を失い、保身のために権力と結託する仏師となりました。二人の宿命の対決の際、茜丸がかつての我王の悪行を糾弾する場面では、茜丸の顔はもはや15年前とは別人の醜い笑いを見せていました。大人になってから再読し、人の命の妙を見事に描いていると感じました。

なぜ二人の心境はここまで大きく変化したのか。実はこのダイナミックな「変化」こそが命の本質と言えます。ロシアの文豪トルストイは、『復活』の中でこのように記述しています。「ただわれわれはある個人について、あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか、馬鹿でいるよりもかしこいときのほうが多いとか、無気力でいるより精力的であるときのほうが多いとか、あるいはその逆のことがいえるだけである。かりにわれわれがある個人について、あれは善人だとか利口だとかいい、別の個人のことを、あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば、それは誤りである。(中略)各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが、あるときはその一部が、またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために、人びとはしばしばまるっきり別人のように見えるけれども、実際には、相変わらず同一人なのである」

以前、「一粒の種」という記事で書いたことと重複しますが、よきにつけ悪しきにつけ、人間という一粒の種の中にはあらゆる可能性が秘められています。

2019年5月16日木曜日

エホバ


私はとある信仰をしていますが、他宗である「エホバの証人」の方の訪問をほぼ毎週受け入れていた時期がありました。

自分の信仰を持っている私がなぜ斯様に振る舞うのか疑問に思う方もいるかもしれません。しかし、私から言わせれば、自分が信仰を持っているからこそ、客観的かつ虚心坦懐に他の宗教について学ぶことができるのです。

400mハードル選手の為末大さんは、自著『走る哲学』でこう述べています。「自分がない人は新しい視点を恐れてむしろ頑固になるか、ただ染まる。寛容は目の前のものを受け入れるのも受け入れないのも自分でコントロールできるという自信からきていて、だから自分を理解している深さと受け止められる幅は関係している」

こと多くの日本人においては、宗教という生きるうえで最も重要な軸が空白となっているので、何かにつけて100%受容するか、100%拒否するという両極端の思考に陥りやすいと考えています。議論の対象となるものについて、何がよくて何がよくないのかを分析して論ずる思考力は、自分の宗教という軸の強固さによってもたらされるのではないでしょうか。

2019年5月15日水曜日

LAWSと人間の欲望


2019515日付の『公明新聞』4面に、興味深い記事がありました。自律型致死兵器システム(LAWS)を巡る議論に言及した記事です。人工知能を搭載し、標的選択から攻撃まで人間の関与なく全て自動で行うシステムらしいです。実際にはこれはまだ開発されていないですが、現存しない兵器だからこそ具体的で明快な議論をすることが困難であり、8月に行われる特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の政府専門家会合で議論の成果が出せるかが注目されているとのこと。

この記事を目にしたとき、養老孟司さんの『バカの壁』の内容を想起しました。養老さんは、近代の戦争とは武器はできるだけ身体から離していきたいという欲望が暴走した状態だと論じました。つまりは以下の引用の通りです。「戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。(中略)その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。」

養老さんの指摘が正しければ、私たちは自分の行為によって相手が傷つくのを見たくないという欲望を本源的に有していることになります。もしそうであれば、LAWSはその欲望を最大限に現した兵器と言えます。最大限と言っても、人間の欲望は(生理的な欲求は除いて)終わりのないものですから、LAWSが完成・普及すれば今度はLAWSの開発すらAIに行わせるという方向に進化してしまうのでしょうか。こう考えると、今の段階でしっかりとした歯止めを設けることの重要さは明白ですね。

2019年5月14日火曜日

恵まれた環境の中で


今年80歳を迎えた漫画家ちばてつやさんの名作に、『あしたのジョー』があります。私もかつて熱中して読んだものです。ドヤ街に紛れ込んだ青年矢吹丈が、そこで出会った丹下段平のコーチの下、ボクシングで世界を目指す青春スポーツ漫画です。中学1年時、私のクラス担任だった先生もあしたのジョーのファンであり、よくその話題になったことも懐かしい。

特に私が好きなシーンは、東洋タイトルを掛けた一戦です。ジョーが挑んだ東洋チャンピオン金竜飛は、幼少期に朝鮮戦争下で壮絶な半生を送りました。そのときに経験した飢えと渇きに比すれば、ボクサーとしての減量など「ままごと」だと言い捨て、必死に減量しているジョーを「満腹ボクサー」と揶揄します。ジョーは試合前に、この金に対して技術どころか精神面で圧倒的な劣等感を植え付けられてしまい、防戦一方の前半を終えます。

しかし試合後半、彼はかつてのライバルであった力石徹を思い出します。力石は、少年院時代にボクシングで引き分けたジョーに決着をつけるため、無理な減量を自分に課してジョーの階級であるバンタム級まで体重を落とす。それが一因となり、ジョーとの一戦を終えた後彼は命を落とした。それを思い出したジョーは気づいた。金は過酷な環境下で「食えなかった」が、力石は恵まれた環境下にありながら自分の意思で「食わなかった」のだと。ジョーは金に言い放つ。「おまえは自分だけがたいへんな地獄をくぐってきたかのようにタテにとり、しかもそいつを自分の非情な強さとやらのよりどころにしているようでは・・・なあ。はっきり力石におとるぜ!」その力石と男の紋章を掛けて拳を交えた自分が、金に負けては申し訳が立たないと奮い立ち、反転攻勢を開始したジョーはKO勝ちする。

私はこのシーンを通して、人生においてはしばしば、「厳しい環境に抗うよりも、恵まれた環境の中で自ら戦いを起こすことの方が遥かに困難だ」ということを学びました。例は色々ありますが、社会人と学生を比較してみましょう。社会人になると新しい仕事を覚えたり、大人の話についていくために様々勉強する必要に迫られますが、社会人には何かと時間の制約があります。しかし、必要に迫られれば短い時間でも集中して勉強はできます。一方、学生時代は前者に比すれば好きなだけ勉強する時間はありますが、遊びたい欲や周囲の空気に流されてしまいがちです。その中で刻苦勉励しようと思えば、力石のように自らの意思で自らへの戦いを起こさなくてはなりません。大人になってこのシーンを再読して以来、これを肝に銘じています。

2019年5月13日月曜日

ゆたぽん


10歳の不登校YouTuberゆたぽん君が、一部の界隈で有名になっています。彼の活動に対しては賛否両論ありますが、どちらかというと批判の方が多いですね。先駆者というのは何かと多くの批判を受けるのが歴史の常です。気にせず邁進すればよいと思います。

彼の言っていることを要約すると、不登校になったきっかけは2つあるそうです。まず、宿題を拒否したら休み時間返上で教師に宿題の消化を命じられたこと。そして、教師の言うことに従順な周りの子どもがロボットに見え、このまま学校に行き続ければ自分もロボットになってしまうと思ったこと。これらの動機に対して「甘え」「ただのサボり」「人生なめるな」などと批判を受けています。

これらの批判も理解できなくはないですが、その前に私は、学校に行っていない子どもでもこのように世論を巻き込む主張ができるメディアがある現代に対し、魅力を感じているのです。また、不登校の動機は何であれ、家庭や学校だけが子どもの居場所ではないことを、子どもである彼自身が示した功績は大きいでしょう。

彼を批判している人々は、ゆたぽん君の今後を憂いているような体を装っていますが、所詮は妬みの感情が多分にあると思います。つまり、自分より自由に生きているように見える子どもを、自分は不自由に生きていると感じる人間が妬んでいたり、子どもの頃自分は嫌々ながら宿題をやっていたのに、それを拒否して学校に行かない彼をやっかんでいるといったところです。でなければ、自分の子でもなければ知り合いですらない一人の小学生の今後の人生に容喙するでしょうか。

彼を批判する人たちに問いたいです。そもそも、彼を批判する感情は、あなたのどこから生まれているのですか。そして、小学校6年のうち半分は行っていなかった私からすると、スクールカーストのいずれにも属さないような学校社会の「部外者」が、実社会の大人を巻き込む発信ができることに希望を見出しています。

2019年5月10日金曜日

死ぬ気で頑張る


本気で死のうとしている人にとって、「死にたいなんて言うなら、死ぬ気で生き抜いてみろ」ってのは、かなり筋違いでは?という主旨の話をします。

「死ぬ気で頑張る」というのは、消極的であれ積極的であれ、何かに全力で取り組む様を表します。それができる人というのは、「生きる気」がまだ充分に残っている人だと思うんですよ。(言葉というのは可笑しなものですね。) だから、その「生きる気」が深刻なほど喪失している自殺志願者に、「死ぬ気で生き抜け」と言うのは、愚かな論理じゃないですか? 

喩えて言うなら、ガソリンが切れている車に、ガソリンが切れるほど突っ走ることを求めるようなものです。ガソリンが切れるほど突っ走るのは、充分にガソリンが残っていなければ無理ですね。

ともあれ、たとえ自分が言われて奮い立った言葉であっても、他人に対して即座に適用させようとするのはよくないと思います。

2019年5月9日木曜日

自分らしさの檻


明日510日はMr.Children1stミニアルバムを出し、メジャーデビューを果たした日です。ミスチルの楽曲の中でも、青春時代に何度もリピートした思いで深い曲はずばり、「名もなき詩」。

「あるがままの心で生きられぬ弱さを/誰かのせいにして過ごしてる/知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で/もがいてるなら/僕だってそうなんだ」。この感覚を言語化できるセンスは羨ましい限りです。

この歌詞に関連した話ですが、私たちは「ありのままでいいよ」という励ましを耳にすることがよくあります。何となく、間違いのない言葉に思えますが、安易な使い過ぎには疑問を感じます。

人は「ありのまま」に忠実過ぎると、結局は新しい規範で自分を拘束することになってしまいます。つまり、「○○であるべき」という状態から脱出するために「ありのまま」を意識するけど、その状態を真面目に保とうとし過ぎるあまり、「ありのままであるべき」という新たな「べきの檻」に自分を閉じ込めてしまうということです。

ありのままというのは、意識的に「なろう」とするものというより、気づいたら「なっている」ものなんだろうなと思います。「ありのままでいいよ」と言う或いは言われるとき、この点を留意しておきたいと常々考えてます。

私は、「ありのままでいいよ」という言葉やそれを言う人を批難する訳ではありません。ただ、この言葉は「何となく間違いのない」「何となく正しい」ものに聞こえるだけに、言われた側がこれに違和感を持つと「何となく私の方が間違っている」という自己否定をもたらすことがあります。万が一、言った側は自己肯定を促すために言ったにもかかわらず、言われた側は自己否定に陥ってしまうことがあったら、大変悲しいこと。

2019年5月8日水曜日

絶望


欲望に縛られて苦しいという人は、それが完全に断ち切られたときに、自分を縛っていた欲望という縄が実は自分と生とを繋ぐ命綱であったことに気づくのかもしれない。或いは気づかぬまま死んでいくのでしょうか。
欲望が強すぎるのは生きづらい。かと言って、欲望が全くなくなると、相対的に死へのハードルが低くなります。つまり、「生きてても別に何もやる気しないから、死のうかな、、」「何やってもつまんねーし、死んでも同じじゃね?」ってこと。私のうつ病が最もひどい状態になると、そういう思考になっていきます。
自殺志願者の抱く感情の一つとして、「絶望」が挙げられる。これを一般的に「希望が絶たれること」と読む人は多い。でも、この種の自殺志願者にとっては「欲望が絶たれること」と読む方がより正確ではないでしょうか。少なくとも、私はそうでした。両者は似てるけど、微妙なニュアンスの違いがある。

2019年5月6日月曜日

軽減税率


たまには社会的なことも書いてみたいと思ったり。

軽減税率について。軽減税率とは、消費税を今秋10%に引き上げた後も飲食料品や新聞などの生活必需品の税率を8%に据え置く措置。これには様々な批判があります。例えば、YouTubeで政治の話題を分かりやすく解説しているKAZUYAチャンネルで批判されている主な観点(https://youtu.be/0ZAqkztr0iE)を、以下で要約します。

減税対象の商品・サービスの線引きが面倒。例えば同じ商品でもイートインなら10%で、持ち帰りなら8%という方針を実施するなら、サービスを提供する側は面倒を被る。その他様々細かいシステム変更をするのは、中々非現実的では?また、そもそも小手先の増税を行うのではなく、景気を盛り上げるという大局的な政策が優先事項である。

以上がKAZUYAさんの主張です。確かに彼の言う通り、軽減税率には色々問題がありそうですね。しかし、6年後には団塊の世代全員が後期高齢者になり、さらに20年後には65歳以上の人口がピークを迎える(cf. 「主張」『公明新聞』2019/5/1付、2面)という事態に直面している今、社会保障の整備に向けた増税自体は避けられないような気もします。そして、将来的に消費税は10%より上がっていくでしょう。仮に、消費税が20%になるとしましょう。その時になって「やっぱり生活必需品は減税した方がいいよね」という機運が高まり、この面倒な軽減税率制度をやっと導入しようとするくらいなら、今導入した方がよいでしょう。なぜなら、その時代には超高齢社会になり、他に着手しなくてはならない経済の課題が山積している中でこの軽減税率制度に伴う細かい調整を行うのは混乱を招くと思います。それこそ小手先の制度改正として捉えられてしまうと思います。

ドイツには、消費税にあたるものとして「付加価値税」があります。その税率は19%にも上ります。但し、牛乳やバター、パンなどの生活必需品は7%に抑えられています。(cf. 熊谷徹『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』)日本もいずれさらに増税していく予想に鑑みると、今から軽減税率という「面倒な」枠組みを確立し、国民の感覚を慣らしておく方が、低所得者や高齢者へ配慮した選択と言えるかもしれません。

2019年5月5日日曜日

一粒の種


一粒の種は、ただの種であると同時に、いつか花を咲かせるかもしれない命の仮の姿でもあります。後者のように捉え続けられる人は、一般的には稀です。種は種として、花は花として、つまり今見えている姿でそのものを認識するのが普通だからです。

立派に成長した人を見て、「昔のあなたの姿からは想像もできなかった!」と喜ぶのは、簡単。グレた人を見て、「昔は素直で良い子だったのに、今は・・」と言い放つのも簡単。人は、よほど意識をしない限りは、過去でも未来でもなく、「今」の状態のみを基準として他人を評しがちです。私自身もそうしてしまいます。

自分のことを種のときも、花のときも、枯れそうなときも、一貫して祈ったり励ましたりしてくれている人のことに対して、報恩感謝の思いを忘れないでいたい。その思いを持ち続けている人にしか、諦めと戦いながら見守り続けるという行為の難しさ・尊さは分からない。

過去も、現在も、未来も、苦しみも、喜びも、傲慢も、感謝も、全て人間という一粒の種の中にあるのだと思います。

2019年5月4日土曜日

インドのエンジニア

私はエンジニアをしていますが、インド人に優秀なエンジニアが多いということをよく聞きます。その背景として、質の高い数学教育のみならず、カースト制度との関係も無視できません。
インドにおいてカースト制度は、人々の身分とそれ相応の職種を決定づけます。しかし、ITはカーストのいずれの位もカバーしてこなかった新領域であるため、カーストの抜け穴としてたくさんの人材が参入してきました。(cf. 落合陽一『日本再興戦略』幻冬舎)
つまり、彼らにとってIT分野で働くということには、自分の生活にとって切実なモチベーションがあります。そのため、必死こいて自主的に勉強するでしょうし、結果として世界を股に掛ける優秀なエンジニアが産まれていると考えられます。

各国の技術者は、それぞれこのような切実なモチベーションを持っています。多くの日本人が太刀打ちできないほどに彼等が成長するのは、そのためですね。

2019年5月3日金曜日

ネオ働き方改革

今は割と自由な働き方が流行ってるけど、そのうち「モーレツ2.0」とか「Be a 社畜」みたいなキャッチコピーがもてはやされる時代になる気がしている。つまり、働き方改革とやらの揺り戻しである。
そういう時代には、夢や目標を持つこと自体より、夢や目標がなくても進み続けられる愚直さがより重宝されると思う。

時代は線形的に進むのでもなければ、全く同じことを純円のように繰り返す訳でもない。終わらない蚊取り線香のように、軌道を少しずらしながら弧を描く。

2019年5月2日木曜日

「自分」への到達

エムグラムという性格診断サービスを受けた。105問にわたる質問に回答した結果、その人の性格・適性・魅力などを判断するもの。これが中々当たっていて興味深いのです。
私の診断結果で特に目を引くのは、「強靭性が超特異的に低い」というもの。日本人が1万人いるとしたら、私の強靭性は下から数えて35番目らしいです。言い換えると、とても繊細だということです。確かに、「気にし過ぎ」「考え過ぎ」との指摘を受けることが多々あります。もっと鈍感になれたら、生きるのが楽になるだろうかと思うこともしばしば。そんな時、microの「HANA唄」を聴きながら、自分を元気づけています。
「本当のやさしさ強さとは/鈍くなっていくこととは違うのさ」

自分の性分、いわば人間性のクセというやつは、一生掛けても根本的に変わることは難しい。ならば、精一杯「自分」になりきるしかないです。「誰か」に代わりたいと思ううちは、「自分」にすらなることができません。俺は小栗旬になれないが、小栗旬も俺にはなれないことを誇りに思おう。

2019年5月1日水曜日

人生を演じ切ろう


ある日、演劇を観に行きました。ロシアの作家ゴーリキーの『どん底』を原作としたものでした。最後のセリフが印象的でした。ある登場人物が首を吊って、それに対して別の登場人物が「バッカヤロー!」と凄い剣幕で叫んで幕が下りました。自宅までの帰路にて、何度もそのラストシーンを回想しました。もし、あの最後のセリフが死者を憐れむ優しいセリフに取って代わられたら、劇は台無しになっていたかもしれません。

ふと思ったのですが、自殺した人を無条件に憐れむ人々が多すぎる世界では、人生の希望を見失った人にとって「死にさえすればこんな自分でも憐れんでもらえる」という危険な誘惑をもたらしてしまうのではないでしょうか。その人の「魂を悼む」こととその人の自殺という「行為を受け容れる」こととは別だという認識が、自殺者を弔うことの前提だと思います。なぜなら、その行為まで受け容れてしまうと、今後別の人が行う同じ行為もまた肯定される空気を作りがちだろうからです。大げさでしょうか?

『どん底』の内容と、宮本輝の『ドナウの旅人』下巻に記された言葉を重ねつつ、また明日から頑張ろうと思います。

「虚無という劇を演じるための虚無が存在するのと同じく、希望という劇を演じるための、必死の希望もまた、人間はきっと発見出来るに違いない」

理論とこころ


大学時代、ゼミで楽観主義について研究をしたことがあります。自分自身はどちらかというと悲観主義者であるだけに、ああいった内容の資料を作ったり発表したりするのはとても精神的エネルギーを消費しました。

理論を習得しても、その理論に従って永続的に生き方を変えるのは、難しい。私の場合、楽観主義の理論を学んでも楽観的に生きられるのはせいぜい1ヶ月くらいでしょう。自分を変えることの困難さには、もどかしさを感じます。心理学や心理学的なものが提供する技術には、移ろいやすい生命状態のベクトルを永続的に矯正し続ける力はありません。だからもどかしい。しかし、かと言ってもしそれが可能になったら、個々の人間は理論で容易にコントロールできる単純なモノになってしまうような気もします。

「頭では分かってるけどできない」という感覚は、もどかしさと自由との絶妙な均衡で成り立っていて、この感覚が人間を人間たらしめているのでしょうね。