一粒の種は、ただの種であると同時に、いつか花を咲かせるかもしれない命の仮の姿でもあります。後者のように捉え続けられる人は、一般的には稀です。種は種として、花は花として、つまり今見えている姿でそのものを認識するのが普通だからです。
立派に成長した人を見て、「昔のあなたの姿からは想像もできなかった!」と喜ぶのは、簡単。グレた人を見て、「昔は素直で良い子だったのに、今は・・」と言い放つのも簡単。人は、よほど意識をしない限りは、過去でも未来でもなく、「今」の状態のみを基準として他人を評しがちです。私自身もそうしてしまいます。
自分のことを種のときも、花のときも、枯れそうなときも、一貫して祈ったり励ましたりしてくれている人のことに対して、報恩感謝の思いを忘れないでいたい。その思いを持ち続けている人にしか、諦めと戦いながら見守り続けるという行為の難しさ・尊さは分からない。
過去も、現在も、未来も、苦しみも、喜びも、傲慢も、感謝も、全て人間という一粒の種の中にあるのだと思います。
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