2019年5月17日金曜日

鳳凰編


今年で、漫画家の手塚治虫さんが亡くなってから30年が経ちます。今は令和元年ですが、手塚さんが亡くなったのは平成元年であることを考えると、匆匆の間に時代が過ぎていった感があります。

手塚さんの代表作『火の鳥』は私が中学時代熱中して読んだ漫画の一つでした。特に、深い感銘を受けたのはその中の「鳳凰編」です。幼少の頃からあらゆるものに対して怒りを抱きながら生きてきた我王と、純粋な心を持った仏師茜丸との不可思議な運命を描いています。何が不可思議かと言うと、二人が初めて会ってから15年経って、それぞれ人間の中身が大きく変化しているということです。我王は師匠との出会いと別れを通じて、命の本質を悟ります。一方、茜丸は純粋な心を失い、保身のために権力と結託する仏師となりました。二人の宿命の対決の際、茜丸がかつての我王の悪行を糾弾する場面では、茜丸の顔はもはや15年前とは別人の醜い笑いを見せていました。大人になってから再読し、人の命の妙を見事に描いていると感じました。

なぜ二人の心境はここまで大きく変化したのか。実はこのダイナミックな「変化」こそが命の本質と言えます。ロシアの文豪トルストイは、『復活』の中でこのように記述しています。「ただわれわれはある個人について、あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか、馬鹿でいるよりもかしこいときのほうが多いとか、無気力でいるより精力的であるときのほうが多いとか、あるいはその逆のことがいえるだけである。かりにわれわれがある個人について、あれは善人だとか利口だとかいい、別の個人のことを、あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば、それは誤りである。(中略)各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが、あるときはその一部が、またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために、人びとはしばしばまるっきり別人のように見えるけれども、実際には、相変わらず同一人なのである」

以前、「一粒の種」という記事で書いたことと重複しますが、よきにつけ悪しきにつけ、人間という一粒の種の中にはあらゆる可能性が秘められています。

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