2019年5月18日土曜日

心の風邪


うつは「心の風邪」と表現されることがある。あるサイトを見たときに、これに異を唱える人がいた。すなわち、うつ病は「風邪」などという軽い言葉で表現されうるようなものではない、というものだ。

確かにうつ病は軽い病ではない。朝起きてから夜寝るまで、何もやる気が起きなくなるし、未来に対して絶望的になるというのは深刻な事態である。だが、そもそも「心の風邪」というのは誰が最初に言い始めたかは定かではありませんが、その真意は何かを考える必要があります。これは、「風邪のように軽いもの」ではなく、「風邪のように誰でもなりうるもの」ということを表現したかったのでは、と私は考えています。

すべての命には、あらゆる病になる可能性と、それを克服できる生命力が宿っています。

2019年5月17日金曜日

鳳凰編


今年で、漫画家の手塚治虫さんが亡くなってから30年が経ちます。今は令和元年ですが、手塚さんが亡くなったのは平成元年であることを考えると、匆匆の間に時代が過ぎていった感があります。

手塚さんの代表作『火の鳥』は私が中学時代熱中して読んだ漫画の一つでした。特に、深い感銘を受けたのはその中の「鳳凰編」です。幼少の頃からあらゆるものに対して怒りを抱きながら生きてきた我王と、純粋な心を持った仏師茜丸との不可思議な運命を描いています。何が不可思議かと言うと、二人が初めて会ってから15年経って、それぞれ人間の中身が大きく変化しているということです。我王は師匠との出会いと別れを通じて、命の本質を悟ります。一方、茜丸は純粋な心を失い、保身のために権力と結託する仏師となりました。二人の宿命の対決の際、茜丸がかつての我王の悪行を糾弾する場面では、茜丸の顔はもはや15年前とは別人の醜い笑いを見せていました。大人になってから再読し、人の命の妙を見事に描いていると感じました。

なぜ二人の心境はここまで大きく変化したのか。実はこのダイナミックな「変化」こそが命の本質と言えます。ロシアの文豪トルストイは、『復活』の中でこのように記述しています。「ただわれわれはある個人について、あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか、馬鹿でいるよりもかしこいときのほうが多いとか、無気力でいるより精力的であるときのほうが多いとか、あるいはその逆のことがいえるだけである。かりにわれわれがある個人について、あれは善人だとか利口だとかいい、別の個人のことを、あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば、それは誤りである。(中略)各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが、あるときはその一部が、またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために、人びとはしばしばまるっきり別人のように見えるけれども、実際には、相変わらず同一人なのである」

以前、「一粒の種」という記事で書いたことと重複しますが、よきにつけ悪しきにつけ、人間という一粒の種の中にはあらゆる可能性が秘められています。

2019年5月16日木曜日

エホバ


私はとある信仰をしていますが、他宗である「エホバの証人」の方の訪問をほぼ毎週受け入れていた時期がありました。

自分の信仰を持っている私がなぜ斯様に振る舞うのか疑問に思う方もいるかもしれません。しかし、私から言わせれば、自分が信仰を持っているからこそ、客観的かつ虚心坦懐に他の宗教について学ぶことができるのです。

400mハードル選手の為末大さんは、自著『走る哲学』でこう述べています。「自分がない人は新しい視点を恐れてむしろ頑固になるか、ただ染まる。寛容は目の前のものを受け入れるのも受け入れないのも自分でコントロールできるという自信からきていて、だから自分を理解している深さと受け止められる幅は関係している」

こと多くの日本人においては、宗教という生きるうえで最も重要な軸が空白となっているので、何かにつけて100%受容するか、100%拒否するという両極端の思考に陥りやすいと考えています。議論の対象となるものについて、何がよくて何がよくないのかを分析して論ずる思考力は、自分の宗教という軸の強固さによってもたらされるのではないでしょうか。

2019年5月15日水曜日

LAWSと人間の欲望


2019515日付の『公明新聞』4面に、興味深い記事がありました。自律型致死兵器システム(LAWS)を巡る議論に言及した記事です。人工知能を搭載し、標的選択から攻撃まで人間の関与なく全て自動で行うシステムらしいです。実際にはこれはまだ開発されていないですが、現存しない兵器だからこそ具体的で明快な議論をすることが困難であり、8月に行われる特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の政府専門家会合で議論の成果が出せるかが注目されているとのこと。

この記事を目にしたとき、養老孟司さんの『バカの壁』の内容を想起しました。養老さんは、近代の戦争とは武器はできるだけ身体から離していきたいという欲望が暴走した状態だと論じました。つまりは以下の引用の通りです。「戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。(中略)その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。」

養老さんの指摘が正しければ、私たちは自分の行為によって相手が傷つくのを見たくないという欲望を本源的に有していることになります。もしそうであれば、LAWSはその欲望を最大限に現した兵器と言えます。最大限と言っても、人間の欲望は(生理的な欲求は除いて)終わりのないものですから、LAWSが完成・普及すれば今度はLAWSの開発すらAIに行わせるという方向に進化してしまうのでしょうか。こう考えると、今の段階でしっかりとした歯止めを設けることの重要さは明白ですね。

2019年5月14日火曜日

恵まれた環境の中で


今年80歳を迎えた漫画家ちばてつやさんの名作に、『あしたのジョー』があります。私もかつて熱中して読んだものです。ドヤ街に紛れ込んだ青年矢吹丈が、そこで出会った丹下段平のコーチの下、ボクシングで世界を目指す青春スポーツ漫画です。中学1年時、私のクラス担任だった先生もあしたのジョーのファンであり、よくその話題になったことも懐かしい。

特に私が好きなシーンは、東洋タイトルを掛けた一戦です。ジョーが挑んだ東洋チャンピオン金竜飛は、幼少期に朝鮮戦争下で壮絶な半生を送りました。そのときに経験した飢えと渇きに比すれば、ボクサーとしての減量など「ままごと」だと言い捨て、必死に減量しているジョーを「満腹ボクサー」と揶揄します。ジョーは試合前に、この金に対して技術どころか精神面で圧倒的な劣等感を植え付けられてしまい、防戦一方の前半を終えます。

しかし試合後半、彼はかつてのライバルであった力石徹を思い出します。力石は、少年院時代にボクシングで引き分けたジョーに決着をつけるため、無理な減量を自分に課してジョーの階級であるバンタム級まで体重を落とす。それが一因となり、ジョーとの一戦を終えた後彼は命を落とした。それを思い出したジョーは気づいた。金は過酷な環境下で「食えなかった」が、力石は恵まれた環境下にありながら自分の意思で「食わなかった」のだと。ジョーは金に言い放つ。「おまえは自分だけがたいへんな地獄をくぐってきたかのようにタテにとり、しかもそいつを自分の非情な強さとやらのよりどころにしているようでは・・・なあ。はっきり力石におとるぜ!」その力石と男の紋章を掛けて拳を交えた自分が、金に負けては申し訳が立たないと奮い立ち、反転攻勢を開始したジョーはKO勝ちする。

私はこのシーンを通して、人生においてはしばしば、「厳しい環境に抗うよりも、恵まれた環境の中で自ら戦いを起こすことの方が遥かに困難だ」ということを学びました。例は色々ありますが、社会人と学生を比較してみましょう。社会人になると新しい仕事を覚えたり、大人の話についていくために様々勉強する必要に迫られますが、社会人には何かと時間の制約があります。しかし、必要に迫られれば短い時間でも集中して勉強はできます。一方、学生時代は前者に比すれば好きなだけ勉強する時間はありますが、遊びたい欲や周囲の空気に流されてしまいがちです。その中で刻苦勉励しようと思えば、力石のように自らの意思で自らへの戦いを起こさなくてはなりません。大人になってこのシーンを再読して以来、これを肝に銘じています。

2019年5月13日月曜日

ゆたぽん


10歳の不登校YouTuberゆたぽん君が、一部の界隈で有名になっています。彼の活動に対しては賛否両論ありますが、どちらかというと批判の方が多いですね。先駆者というのは何かと多くの批判を受けるのが歴史の常です。気にせず邁進すればよいと思います。

彼の言っていることを要約すると、不登校になったきっかけは2つあるそうです。まず、宿題を拒否したら休み時間返上で教師に宿題の消化を命じられたこと。そして、教師の言うことに従順な周りの子どもがロボットに見え、このまま学校に行き続ければ自分もロボットになってしまうと思ったこと。これらの動機に対して「甘え」「ただのサボり」「人生なめるな」などと批判を受けています。

これらの批判も理解できなくはないですが、その前に私は、学校に行っていない子どもでもこのように世論を巻き込む主張ができるメディアがある現代に対し、魅力を感じているのです。また、不登校の動機は何であれ、家庭や学校だけが子どもの居場所ではないことを、子どもである彼自身が示した功績は大きいでしょう。

彼を批判している人々は、ゆたぽん君の今後を憂いているような体を装っていますが、所詮は妬みの感情が多分にあると思います。つまり、自分より自由に生きているように見える子どもを、自分は不自由に生きていると感じる人間が妬んでいたり、子どもの頃自分は嫌々ながら宿題をやっていたのに、それを拒否して学校に行かない彼をやっかんでいるといったところです。でなければ、自分の子でもなければ知り合いですらない一人の小学生の今後の人生に容喙するでしょうか。

彼を批判する人たちに問いたいです。そもそも、彼を批判する感情は、あなたのどこから生まれているのですか。そして、小学校6年のうち半分は行っていなかった私からすると、スクールカーストのいずれにも属さないような学校社会の「部外者」が、実社会の大人を巻き込む発信ができることに希望を見出しています。

2019年5月10日金曜日

死ぬ気で頑張る


本気で死のうとしている人にとって、「死にたいなんて言うなら、死ぬ気で生き抜いてみろ」ってのは、かなり筋違いでは?という主旨の話をします。

「死ぬ気で頑張る」というのは、消極的であれ積極的であれ、何かに全力で取り組む様を表します。それができる人というのは、「生きる気」がまだ充分に残っている人だと思うんですよ。(言葉というのは可笑しなものですね。) だから、その「生きる気」が深刻なほど喪失している自殺志願者に、「死ぬ気で生き抜け」と言うのは、愚かな論理じゃないですか? 

喩えて言うなら、ガソリンが切れている車に、ガソリンが切れるほど突っ走ることを求めるようなものです。ガソリンが切れるほど突っ走るのは、充分にガソリンが残っていなければ無理ですね。

ともあれ、たとえ自分が言われて奮い立った言葉であっても、他人に対して即座に適用させようとするのはよくないと思います。